× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
わたしは車を持っていない。辺鄙な土地に暮らしている以上、せめて原付ぐらいは欲しいと考える今日この頃だが。 そのため遠出をする際はもっぱら乗せていただいているわけだが、そんなとき、ふとラジオから聞こえてくるひとつの言葉に思考を向けられた。 『カミングアウトして楽になるのは自分。それを背負わされるのはされた側』 当然の話なのだが、高校生のとき自分にはそんな余裕はなかった。ただただ内から膨れ上がる内圧をわずかでも逃がそうと、無闇矢鱈にカミングアウトする相手を求めたものだ。今考えると何故そこまで必死になったのかわからないが、きっと私は“特別”が欲しかったんだろう。 友人なんてろくにいない自分だが、いまの孤独がそれほど辛くない。 わたしはわたしがわからない。 なにをカミングアウトしたかは、さしたことではないのでここには書かない。 PR |
二年前には考えもしなかったが、結果的にわたしはいま被災地で暮らしている。もう1ヶ月前にもなる大震災の際には、ひさしぶりに死を意識した。ここ茨城県は福島県や宮城県に比べて報じられる機会が少ないが、れっきとした被災地だ。自らの悲劇を強調するわけではないが、死なない程度に生活は困窮している。
“ライフラインがあるだけいい”“五体満足なんだから”。そう考えて自分を慰める。“身近なひとをだれも失ってない”だけ、わたしは被害を受けてないも同然だなんて考えられるほど人間はできてないが… 惨すぎる悲劇がいまだ終わらない。 |
新劇場版エヴァンゲリオン 序 及び 破 をやっと見た。
久々にアニメを見て盛り上がった気がする。最近のアニメを見て今一盛り上がれない自分がいるので 「ああ、年だなぁ」 なんて感じていたのだけど、この作品を見て 「まだだ!!まだ終わらんよ!」 てな気分になれた。 とまあ気持ちの面ではそんなところだが、やはりテレビ版を見ていたほとんどの人に取って気になるシーンがてんこ盛りなことがそそられた。 個人的には使徒の存在、エヴァを動かせる理由、ひとりだけ名前の変わったアスカ。 勿論疑問はこれだけに尽きないが、今回はこの三点に絞って自分の感想や妄想を述べていきたい。 まず、使徒という存在について。 使徒は、前作ではあくまで怪獣の延長戦のようなものとして表現されていたように思う。しかし今作では、使徒全体がどこか人間臭く表現されているように私は感じた。それはテレビ版での使徒が終盤ギリギリに至るまでその内面のようなものを描かれることがなかったからかもしれない。しかし、今回 破 におけるまでに現れた七体の使徒には、 まるでそれぞれが明確な意志を持っているように感じられた。それが、果たしてテレビ版で最後の使徒だったカヲル君にどう繋がるのか。次回作 Q 、そして最終章における展開が気になる材料のひとつではある。 次にエヴァを動かせる条件。 テレビ版では母親というチルドレンに近い魂がエヴァとの中継ぎをするような形で動かしているように見受けられたが、今回ではマリという新たなチルドレンがコアの変換なしにエヴァを動かしている。アスカにしても、参号機に搭乗する際はそのまま乗っていたような印象を受けた。エヴァという人造の神を動かす条件。それが今作においては、テレビ版とは違う条件、ひいては今作における重要なキーワードになる気がしてならない。 最後にアスカの名前。 テレビ版におけるアスカは惣流・アスカ・ラングレー。新劇におけるアスカは式波・アスカ・ラングレー。彼女を見て、私はこの新劇の世界がテレビ版の世界がやり直された世界ではないかと感じた。勿論赤い海や、月の血痕という分かりやすい点もあるが、彼女だけが違うという点がそうなのでは、と私に感じさせた。 にしてもエヴァ放映当時自分は小学生。…随分と時間が過ぎてしまった。 |
YOU TUBE で三作目がアップされていたので、平成ガメラについての雑記など。
私自身、映画公開当時は多感な(笑)中学生だったことに始まり、その頃永井豪氏の名作漫画『デビルマン』に強く影響を受けていたこと、果てにはノストラダムスの予言にまで感化されていた厨二病真っ盛りな時期だったため、この作品はとても記憶に残るものとなった。 前作におけるレギオンとの戦いは、ガメラと人類の連合というある種理想的な展開だった。しかし今作は、第一作目でガメラとシンクロした少女浅黄がラストで警告したように、レギオンを倒すために使いすぎたマナのバランス崩壊を受けて世界中でギャオスが大発生する。一作目ではどこか優しげな眼差しが残っていたガメラも、二作目で進化した時以上にどこか凶々しく変わっていた。そして変わったのは外見だけではない。行動においても容赦なく、渋谷の街ごとギャオスを焼き払うのだ。そして三作目の主人公にあたる比良坂綾奈からガメラは徹底的に憎まれているのだが、これは彼女だけに限らないことが暗に読み取れる。本シリーズにおいてガメラというのは当然“怪獣”であるが、同時に“ヒーロー”でもある。日本的なヒーローに共通する部分として、ヒーローにはハッピーエンドは許されていない。どんなに強い力を持とうとも、それは同時に恐怖される対象となる可能性を高めていくことになるのだ。ラストシーン、ガメラは一人無数のギャオスに立ち向かっていくように燃え盛る京都を進んでいく。私はそれに当時とても悲しくなったが、今はただその姿に誇りを感じた。感じた差はあれど、きっとどちらも私に魅せられたヒーローの姿なのだろう。 |
| ホーム |
|